参考)『金寳山 浄智禅寺』関口泰 著 より

現「たからの庭」、元陶芸家・久松昌子さんのアトリエ「鎌倉陶園」が誕生した頃の浄智寺の歴史を、朝比奈宗源老師が書かれていました。古い本なので、いまのうちにデータにしておくことにしました。宗源老師(現・朝比奈住職のおじいさま)の文章はとても人間味にあふれていて、お人柄がしのばれます。


序 朝比奈宗源

私が恩師古川堯道老師の厳命によって浄智寺に住持することになったのは大正11年の1月であった。その折私は東京に遊学中で、寄寓していた浅草の海禅寺に在ってこんな詩を作った

将赴金山之請興全鼎契夜話
(略)

浄智寺は私にはそれ以前からなじみ深い寺であった。それは大正5年5月から1年余をここにすごしたからである。初めは堯道老師が只一人ですんでいられたので、道友故 傳泰観と二人で置いていただくことにしたのであったが、私どもが来ると間もなく老師は円覚寺僧堂の師家として正続院に遷られたので、傳と私とは留守をしながら円覚に通参し、越えて6年8月私は円覚寺に入って老師の補佐に当たり、傳は曹洞宗の人であったのでその宗風を探るため永平寺に赴いた。その間一年余の浄智寺での生活は愉快であった。道を求めて来る海軍将校や学生を相手に文字通り折脚当内に野菜根を煮るの枯淡な生活をし、掃除や作務も活快に坐禅も猛烈にした。松ヶ丘東慶寺におられた宗演老師は折々ふらりと見えて私どもを驚かされた。勿論何一つの準備もない、炉に杉葉をくべて薬缶をかけて出がらしの番茶を温めて上げるのが常であった。しかし老師はいつも非常にご満足そうにしては帰られた。又私どもの龍蛇混雑ぶりを梁山伯などと呼ばれた。

浄智寺のその当時の建物は、大正元年に大きな腐朽した庫裡を切り詰めた五間と二間半の小さな庫裡と、七間に四間の書院、之は安政年間に建てずっと南の山際にあったのを太田晦厳老師が住職していられた明治時代に庭の中程へ出されたもの、全部 材でまことに瀟洒な感じの良い建物であった。二間半と四間半との土蔵もあり、仏殿が五間と四間四尺、用材は松と杉で、余り良い建物とは言えなかったが、須弥壇があり仏殿兼法堂のつくりでヒンボツや上堂もできるようになっており、土間に長連床を置いてお経を読んだり坐禅をしたりした。この二棟は文政年間の建築である。別に地蔵様を安置した三間半四面の御堂があった、もと蔵雲庵の本堂として下の石橋の突き当たりの壇にあったのを、明治年間に今の乾さんのお宅の処へ移したもの。建築年代は不詳。門は今もある小さな門と山門と総門。このうち門を除いた建物は全部茅葺きであった。これらの古色蒼然たる伽藍が、庫裡の裏も竹林、今参道になっている一帯も竹林、仏殿の南の方も竹林、その奥はすべて畑という、鬱蒼たる竹林や杉檜の森に囲まれて、静寂そのもののような別天地に建っていた。月の夜や雨の夜の幽かな仏燈を掲げた堂中の夜坐はとてもよかった。しかしその時分の私は、7年もいた妙心寺の僧堂を飛び出し、乗鞍山中に百余に血の独接心--と言っても前期の傳兄と二人であったが、--をして来た後で、寺や住居に対する執着など微塵もなかった。けれども浄智寺の閑寂な境致は私の心のどこかをとらえていたようである。浄智寺住持の命を受けて一穂寒燈照影青と賦したのも、私の頭の中にあった浄智寺の生活の印象の再現に他ならない。当時の浄智寺の気分はたしかにそうであった。

上述の伽藍が大正12年の大震災で三つの門だけ残してことごとく倒壊してしまったのである。只庫裡が半壊であったたので無理に起こして突かえ棒をして今の庫裡を建てるまで使用した。

大震災の後には私も種々に考えた。教団の将来のためにもこの際思い切って寺院の整理を行う必要がある。この付近としては、建長円覚二山だけ伽藍らしい伽藍を建てれば良い。その他の寺が無理して伽藍を建てるのはやめ、従来のように伽藍の維持に汲々とする力を教団本来の使命である伝道教化の方面に注ぐべきであると、円覚寺を中心とする円覚寺派のこの辺の寺はその趣旨で合同し、由緒ある寺はその名称を保存するため開山塔一宇を建て、その他の財産は挙げて共同経営に委し、事務を分担し時代に即応した機構をつくって活動しようと有志と共に幾回か一山会議を開き、大体の成案を得て時の管長堯道老師のご賛成をも得たのであったが、ついに種々の事情のため実現に至らなかった。これは今でも残念に思っている。その結果、私も大正13年に浄智寺の今の書院を建てて仮本堂とした。その主要材料は郷里の俗縁杉山平作が送ってくれ、費用は信者の特志のほか私が調達した。その中に私は円覚寺復興の任に当たることとなり、自坊の経営はそのままとなっていた。そこへ長寿寺の復興を終えられた中島真雄翁が当寺の復興の遅々たるを憂えられ、当寺の土地を宅地として開放し翁の友人知己を援いて住まわせ、これによって仏殿庫裡を再建するの計画を立ててくだすった。土地の貸与から工事の設計監督まで、ご多忙な身を以て親しく之に当たってくださった翁の御高義は永遠に忘るるべきでない。その期間は昭和4年から7年にわたった。庫裡が6年に仏殿が7年に竣工した。公費の大半は翁のご配慮による土地の収入で、故山元悌次郎、故辻野朔次郎、故権太親吉、芳澤謙吉、松井七夫、町野武馬、江村豊三、関口泰等の諸氏のご厚志に基づく。なおそのほかのご寄付をいただいた方々は、太田晦厳老師、中島翁をはじめ、町田徳之助、小幡文三郎、勝目行義、粟田傳兵衛、富岡周蔵、柳下欽之助、故土岐?、故加藤きそ氏等ほか数十氏である。以上の中主立った方々の姓名は、棟札に記した。

(2009/12/31)

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